勉強レストランそうなんだ!!の子どもたちと関わっている中で、幼い頃の自分の記憶を思い出すこ とがあります。
家族で旅行に行ったとき、漁港の市場の人がとても陽気に話しかけてきてくれました。
子どもの喜びそうな歌を調子よく歌いながら話しかけてくれたのですが、両親の前で子ども扱いさ れることに照れくささを感じて、嫌だなと思った記憶があります。 私は咄嗟に心を閉ざして、一言も喋らなくなりました。
ただ喋らないだけでなく離人症状のような感覚もあったことを覚えています。
診断というのは業務独占資格である医師だけができることです。
同時に場面緘黙症を検索すると、そういう状態が一ヶ月以上続くことを呼ぶのだとわかります。
故に私は自分が場面緘黙症だったというつもりはありません。
でもあのときの感覚を目の前にいる子どもたちの支援に役立てられないかといつも考えています。
一方で私個人の実体験なんて何のエビデンスにもならないし、一般化できるものではありません。
喋らない子どもに対して、「嬉しいね」など今の気持ちを代わりに言語化することで、内言語の蓄積を促す支援が有効な場合もあると理解しているけれど。
かつて幼稚園の先生に自分の気持ちを決めつけれて猛烈に反発を感じたことも記憶しています。
むしろ大人の使う言葉に反発するからこそ、訂正するために発語に至るという可能性もありますね。
だとしたら教育とは”良質なトラウマを作ること〟なのでしょうか。
言葉にできなかった頃のくやしさを今も思い出せるのに、いつのまにか自分がわからずやな大人の方になってしまっていました。
饒舌に喋ることで自分の機嫌が悪くないことをアピールして、無害だと周知することを処世術とし て覚えました。
黙っているだけで周囲の人を威圧してしまう年恰好になり、子どもを〝注意しないと〟と思っただ けで既に聴覚過敏の子どもが私の表情筋の動きを見て耳を塞いでいました。
職員紹介に載っている私の写真を見て「やさしそう」と言ってくれた子どももいる一方で「怖い」という子どももいます。
それでも遠目で私を見つけたときに手を振ってくれるくらい慕ってくれる子どももいて、放課後等 デイサービスで働くことって、とても仕合わせなことなのだと実感しています。
(指導員:磯貝佳史)